2022/03/22
『徳川制度』(【資料1】)と『吉原 江戸の遊廓の実態』(【資料2】)によると、「廓内に失火があると、廓内の消防夫が消防に従事し、御府内四十八組の火消も直ちに繰出すが、かれらは大門内に入らず、土堤に陣取って鎮火を待った」。さらには「先着の火消五組ほどは五十間道の茶屋の上に纏を横に寝かしておくので、六番目に到着した組は屋根に上がれなかった」とあります。また『吉原と島原』(【資料3】)には、新吉原に移ってから最初の大火の際、「公儀の火消も町火消も出動しなかった」とあり、消火している様子はみられません。
ではなぜ消火をしないのでしょうか。
【資料1】によると、「廓内の火事にて若干戸の妓楼焼け残りたるときは、廓内の消防夫はことさらにこれを焼き払う手段を廻らし、全然闔廓を灰燼に付し去らんことを勉めたり。けだし当時の制、焼け残りの妓楼あれば、仮宅の許可なきを以てなり。」とあり、全焼すると仮宅で営業することが許可されており、そのため消火をしなかったとあります。
『江戸学事典』(【資料4】)では、「仮宅は素人の家という遊郭にない雰囲気、独特の情緒、格式張らないことで人気を集め、つねに賑わった」。また【資料2】では「仮宅営業中は万事が質素で、揚代金も雑用金も手軽になるので、一たんは格別の賑いになるのがふつうで、すでに衰えた遊女屋も類焼後かえって繁盛して、身上を取直すこともあった」とあり、仮宅で営業したほうが儲かったことがわかります。
(参考資料)
【資料1】『徳川制度 中 岩波文庫 青(33)-496-2 』 加藤貴/校注 岩波書店 2015年 請求記号:3221/B0288/0002(P.335-336)
【資料2】『吉原 江戸の遊廓の実態 中公新書 141』 石井良助/著 中央公論社 1981年 請求記号:3849/0069/0081 (P.87-90)
【資料3】『吉原と島原 講談社学術文庫』 小野武雄/著 講談社 2002年 請求記号:3849/B0121/0002(P.171)
【資料4】『江戸学事典』 西山松之助/他編集 弘文堂 1994年 請求記号:2136/0396/0094(P.548)