2015.03.28(Sat)〜2015.05.17(Sun)
2015.03.28(Sat)〜2015.05.17(Sun)
<関ヶ原合戦図屏風 右隻> 大阪歴史博物館所蔵
慶長5年(1600年)の天下分け目の関ヶ原合戦を制したのは、東軍を率いた徳川家康でした。2015年は、元和2年(1616年)に亡くなった家康の没後400年目にあたります。この節目の年に、誰もが知っている関ヶ原合戦の全貌を明らかにする展覧会を開催いたします。 関ヶ原合戦はどのように起こり、そしてどのような時代を準備したのでしょうか?本展覧会では、合戦に参加した各大名家の武具・絵画や、当時交わされた生々しい肉声を伝える古文書等を展示することにより、その全体像を振り返ります。さらに、今回の特徴となる最新の手法を取り入れた立体感のある映像空間によって、関ヶ原合戦の実像に迫ります。
■「骨喰藤四郎」は、江戸東京博物館で展示されます。
豊国神社所蔵「薙刀直し刀 骨喰藤四郎」は、東京都江戸東京博物館で開催される「大関ヶ原展」に展示されます。 展示期間は、3/28(土)~4/19(日)です。 ご来館の際は、展示期間をあらかじめご確認くださいますよう、お願いいたします。
【みどころ】①天下分け目の大展覧会!
②関ヶ原合戦を読み解け!
③3会場全てを見よう!
④最新技術の映像展示!
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【注目の出陳品】■『関ヶ原合戦画屏風』『関ヶ原合戦絵巻』の出陳数10点以上(3会場合計・予定)は過去最多。美しく、色鮮やかな屏風・絵巻類は、一級の美術品としても大変見ごたえがあります。
■ 徳川家康と徳川四天王(酒井家、本多家、榊原家、井伊家)の具足の他、石田三成の愛刀『石田正宗』、島左近の兜など、合戦に参加した主たる武将の武具を史上最大級の規模で展示。本物の迫力とかつてない規模が鑑賞者を圧倒します。 (国宝・重文を多数含む)(会場により一部異なります)
■関ヶ原合戦前日に密約を交わした誓約書など、関ヶ原合戦にまつわる貴重な古文書を展示。有力武将たちがしたためた文書から、“信頼”“裏切り”“凋落”などが読み取れ、当時のスリリングな情報戦が浮かび上がります。天下分け目の関ヶ原合戦のみならず、“戦場外の戦場”も読み解いて行きます。 出陳品は、3会場で合計250点以上(予定)に及び、国宝や重要文化財が多く含まれています。四世紀ぶりに大集結した、武将たち由縁の品々から、日本の運命を変えた1日が蘇ります。 |
会期 | 2015年3月28日(土)~5月17日(日) ★会期中は一部展示品の入れ替えがあります。 |
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会場 | 江戸東京博物館 1階展示室 (東京都墨田区横網1-4-1) 電話番号:03-3626-9974(代表)
・JR 総武線「両国」駅西口、徒歩3分 |
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開館時間 | 午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで) ※入館は閉館の30分前まで。 |
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休館日 | 4月6日(月)・13日(月)・20日(月) | ||||||||||||||||||||
主催 | 公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、 テレビ朝日、BS朝日、博報堂DYメディアパートナーズ | ||||||||||||||||||||
特別協力 | 公益財団法人 徳川記念財団、大阪城天守閣、朝日新聞社 | ||||||||||||||||||||
協賛 | 大日本印刷株式会社 | ||||||||||||||||||||
観覧料 |
※( )内は20名以上の団体料金。
※前売券の販売は3月27日(金)まで。会期中は当日料金で販売。
※3月28日(土)~3月31日(火)の4日間は、常設展観覧料が無料です。
【前売券販売】※終了しました。 ■チケットぴあ ■イープラス ■ローソンチケット ■公式オンラインチケット
※次の場合は観覧料が無料。未就学児童。身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方と、その付き添いの方(2名まで)。
※小学生と都内に在住・在学の中学生は、常設展観覧料が無料のため、共通券はありません。
※中・高・大学・専門学校生の方は学生証を、65歳以上の方は年齢を証明するもの(健康保険証、運転免許証など)のご提示をお願いいたします。
※毎月第3水曜日(シルバーデー)は、65歳以上の方は観覧料が無料です。年齢を証明できるものをお持ちください。 |
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巡廻先 | 【京都会場】京都文化博物館 会期:2015年6月2日(火)~7月26日(日) 【福岡会場】福岡市博物館 会期:2015年8月7日(金)~10月4日(日)(予定) |
■展示資料目録
慶長5年(1600年)9月15日、朝もやが晴れると美濃国関ヶ原に銃声が響きわたった。天下分け目の合戦の始まりである。
そこで繰り広げられた「もののふ達」の戦いは、やがて、その子孫たちに伝説として語り継がれ、数多くの屏風や絵巻物などの作品に描き残された。画面一杯に描かれたその情景には、さまざまな物語が描き込められている。多くの作品の中心には、徳川家康が、金扇馬印と旌旗に囲まれて、華々しく描かれている。関ヶ原の戦いは、そこで勝利を収めた徳川家をはじめとする大名家の、後世、御家繁栄の起点であった。
<関ヶ原合戦図屏風 右隻> 大阪歴史博物館所蔵 |
<関ヶ原合戦図屏風 左隻> 大阪歴史博物館所蔵 |
慶長3年(1598年)8月18日、太閤秀吉がこの世を去った。盤石に見えた豊臣政権は、これを境に大きく動き始める。水面下にあった様々な対立関係が、やがて大きなうねりとなり、日本全国に広がっていった。
次の時代を見据え、着々と足場を固める徳川家康。幼き後継者、豊臣秀頼を前面に押し出し、政権の中枢を狙う石田三成。この二人が、豊臣政権を「関ヶ原」へと、導いていくことになる。
慶長5年(1600年)6月16日、上杉に謀反の疑い有りと、徳川家康は軍勢を率い、会津に出陣した。この動きを待っていたかのように、石田三成は盟友、大谷吉継等とともに挙兵。日本中に激震が走る。「内府ちがひの条々」(徳川家康に対する告発文)を錦の御旗に、各地の大名達へ檄を飛ばし、反徳川勢力を結成して、手始めに伏見城を攻略する。徳川家康は、この事態を受け、石田三成勢と雌雄を決すべく、黒田、福島、細川等の諸将と共に西へ反転を開始。この動きに呼応して、戦の火の手は、瞬く間に全国に飛び火した。家康が去った東北では、上杉景勝(西)と伊達政宗(東)が激突。北陸では、前田利長(東)が丹羽長重(西)を攻め、九州においては黒田如水や加藤清正(東)が大友吉統(西)はじめとする西軍方諸将と干戈を交えるという、まさに全国的規模で関ヶ原の前哨戦が始まった。
<内府ちがひの条々> 福岡市博物館蔵 |
<石田三成書状> 真田宝物館蔵 |
慶長5年(1600年)9月15日早朝、決戦の火ぶたが切られた。明治時代に、当時の帝国陸軍軍事顧問であったドイツ陸軍のメッケル参謀は、関ヶ原の両軍布陣図を見て、西軍勝利を断言したという。有利な布陣と、東軍に劣らぬ大軍を擁した西軍は、何故敗北したのか。
福島(東)対 宇喜多(西)この両軍の激突で始まった戦は(一説には、先鋒の福島隊より先に、井伊、松平の小隊が仕掛けたとも言われる)各所で激戦が展開されていく。 大谷吉継(西)の孤軍奮闘、黒田、細川(東)と石田三成隊の死闘など、後世に語り継がれた名勝負が続く中、一方で数々の諜報、謀略という裏側での駆け引きも密かに進んでいた。 関ヶ原には参加はするが動かない勢力。寝返りを思慮する者達。多くの武将が、疑心暗鬼の不安を抱える中、西軍の大勢力である小早川秀秋が動いた。徳川方からの調略の結果か、石田三成への私怨(三成の報告により、大幅な減封を受けた)か、味方であるはずの大谷隊に軍勢を向けたのだ。多勢に無勢の大谷隊は玉砕。圧倒的有利と言われた西軍は、これを境に大混乱に陥り、敗退した。 こうして戦国でもっとも長い一日が終焉をむかえた。
重要文化財 <徳川家康所要伊予札黒糸威胴丸具足> 久能山東照宮蔵 |
<皺革包昇梯子文仏二枚胴具足> 真田宝物館蔵 |
<金扇馬標> 久能山東照宮蔵 |
関ヶ原合戦の本戦はわずか1日で決したものの、堅城をほこる大坂城には豊臣秀頼を擁する毛利輝元が在城していた。また、全国各地で東西両軍の合戦は継続していた。本戦に勝利した家康には、戦場から逃亡した西軍武将の捕縛とともに大きな課題が残されていた。
家康は寝返った小早川秀秋らの軍勢に石田三成の佐和山城を攻めおとさせるとともに、黒田長政・福島正則を介して、輝元を大坂城から退去させ無血開城を実現した。
10月1日、京都六条河原で石田三成・小西行長・安国寺恵瓊等は、合戦の首謀者として処刑された。戦後の論功行賞により、家康は全国総石高の3割を超える600万石余の所領を西軍に与した武将から没収し、東軍の諸将に分配した。家康の直轄領も400万石に倍増する。 他方、毛利輝元は防長2か国への減封、上杉景勝は米沢へ移転減封、佐竹義宣は秋田への移転減封。敗者の常ではあるが、西軍の中心的な武将は表舞台から消え去った。 家康は敵対勢力を一掃し、関ヶ原合戦の勝利により天下人の地位を大きく引き寄せた。 しかし、この時点では家康は豊臣家の大老という立場は変わらず、関ヶ原の合戦の結果(豊臣政権の内部抗争の集結)を豊臣秀頼に謁見、報告を行っている。
家康が名実ともに天下人になるためには、豊臣家の権威を克服しなければならなかった。家康は、慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に任じられた。将軍となった家康と、関白秀吉の遺児豊臣秀頼という二つの権威を核とする政治体制が現出した。しかし、秀頼の成長と徳川家康の老境という関係は、否応なく次第に摩擦を生じるようになっていく。かつて豊臣家を支えた秀吉恩顧の武将たちもこの世を去り、時代は徐々に徳川家へと流れて行った。
慶長20年(1615年)5月8日、燃え盛る大阪城の山里曲輪で豊臣秀頼とその母淀は自害した。豊臣家滅亡の瞬間である。大阪冬の陣・夏の陣は一つの時代に最終符を打つための最後の戦いとなった。
天文11年(1542年)12月26日、三河国岡崎城主松平広忠の嫡男として、家康は誕生した。幼名は竹千代そして松平元康と名乗った。幼少の頃は駿河国に人質として過ごし、永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦において今川義元が打ち取られる。以後、岡崎に帰城し、織田信長と同盟を結び、信長そして豊臣秀吉に仕え、天下統一の一翼をになうことになる。
戦国時代に生まれ、安土桃山時代を生きぬき、江戸時代を築いた徳川家康。その人物像は、ゆかりの品々からもしのばれる。武勇を語る武器武具、知識を語る書籍、海外への視野をうかがわせる舶来品の数々。それらは今も、子息達への分与品、「駿府御分物」として、また、久能山東照宮等の御宝物として、受け継がれている。
重要文化財 <洋時計> 久能山東照宮蔵 |
重要文化財 <目器> 久能山東照宮蔵 |
大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ直後の慶長20年(1615年)7月13日、年号が元和に改元された。武器をおさめ、戦乱が終わり平和になったとの区切りを示す改元であった。同月、家康は「武家諸法度」を制定・公布した。ここに、徳川家は名実ともに、武家の統領家となり、世界にも類を見ない、二百数十年にも及ぶ、安寧の歴史が刻まれていくことになる。 元和2年(1616)4月17日、時代の移り変わりを見届けた徳川家康はこの世を去った。
■プレスリリース、写真のご用命は、広報事務局までお願いいたします。
「大 関ヶ原展」広報事務局(ユース・プラニングセンター)
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